第40回ユーグレナ研究会研究集会に参加いたします(2025年6月30日~7月1日)大阪公立大学 I-siteなんば

2025年6月30日(月)~7月1日(火)大阪公立大学 I-siteなんば にて行われます「第40回ユーグレナ研究会研究集会・4th International Congress on Euglenoids
合同集会」に出展いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニューパラダイムシフト

≪主義とは≫

2025年4月の段階で世界は大きく分けて二つ、米国経済圏と中国社会圏とに分かれています。米国経済圏は米国を中心として、日本、ドイツ、イギリス、フランス、カナダ、韓国、台湾と他EU各国などの先進国と言われる先進技術を保有する国々がそれに該当します。一方中国社会圏(経済圏ではない)は中国、ロシア、ブラジル、インドネシアが中心となり、東南アジア、中東各国、南米各国、アフリカ各国などが協力関係を築いているところです。インド、トルコなどは中立的な立場と言ったところでしょうか。

米国経済圏の人々は「資本主義」を基礎として、自由経済を行い生活をしています。反して中国社会圏の人々は資本競争を取り入れながらも「社会主義」を基礎として過ごしています。

「資本主義」や「社会主義」以外にも、「民主主義」や「共産主義」などという言葉もよく聞きますが、それでは「主義」とはいったい何を差しているのでしょうか?

主義とは文字通り、「主に(最も)義し(良し)とすること」を意味します。

民主主義であれば、「民が主権を持つ」ことが最も尊重されることとなりますし、共産主義であれば「産み出したものを共有する」ことを最も良しとするということです。

それでは「資本主義」の「資本」を最も良しとするということはどういうことなのかを考えてみましょう。

まず、「資本」=「お金」と考えがちですが、イコールではありません。また、現実の資本主義を基礎とする国々の活動を見ていくと、正しくは「資本増加主義」と言えると思います。これは「資本を増やすことが最も正しい」という考えです。これは米国経済圏だけではなく、世界の半数以上が増やすことが「善」で、減らすことが「悪」という社会になっていることは否定できません。個人の貯蓄に関しても同様の考えがあります。米国経済圏ではこの「資本増加主義」に「自由競争の経済」が加わります。自由な経済競争が経済発展につながるという考えです。はたまた、これに反して中国社会圏は「進歩は人類で共有する」という「共産」的な発想が根強く残っている部分があり人類で共有することで社会が発展するという考えです。根本的にはこの「増やすことが善」という考えと「進歩は人類で共有する」というイデオロギーの違いで米中はぶつかっているように見えます。

とても重要な点は、上述を見返してみるとどちらも「人々の生活向上」という【目的】のためであり、「自由競争の経済」も「進歩の共有」もどちらも【手段】の一つに他なりません。

目的に向かってお互いが手を取り、どちらかの手段を選ばなければならない場合は多少ぶつかることもありますが、米中の場合はそうではなく、それぞれが各々の手段を用いて目的に向かっているため、この場合はぶつかることはありません。ぶつかる理由はどちらかが、もしくは両者が本来の目的から逸脱している場合に、目的が異なるため意見が合わなくなります。このようなことは身近なところでもよく起こります。

日本にいると中国の社会はなかなか見えてきませんが、資本増加主義と自由競争の経済は実感できます。日本は世界でも最も自由に事業活動が可能な国であり、何か新しい製品を販売しようと考えたときに、特にEUのような強い規制はありません。そのような自由競争経済の社会の中、資本増加主義は年々エスカレートしていて経済発展を目的とすることが最も良いことと多くの人が考え、これにブレーキをかける力はまだそこまで働いていませんが、温暖化や食料の問題、子供たちの自殺率の増加などを考えると早々に見直さなければならない時期に来ていると思います。

社会課題を解決するという旗を上げて活動を行う機関が最近になり非常に増えました。しかしながら、これらのほとんどがうわべだけで、本来の解決を目的としておらず利益を上げることを目的としています。欧米式の理論では「利益がでていることは世の中の役に立っているから」という根本の考えがありますが、果たして現在の社会ではそれが成り立っていないことがよく分かってきました。社会課題を解決することは、「利益の継続性」に反します。病気を治したら患者はその後病院に来ません。壊れない装置や設備を作ったらその後売れません。利益を継続させるためには課題を継続させる必要があります。

東京湾をはじめ、国内の都市付近にある湾の表層水を浄化するというプロジェクトがよく話に上がります。赤潮や青潮が発生し漁業や養殖業に影響を与えるためなので必要なことではありますが、この解決手段として表層水を濾す(ろ過する)などを掲げることがあります。赤潮や青潮の原因は河川から富栄養分が流れすぎること、またそれを栄養にする魚介類(あさり、牡蠣など)の生息域が少なくなったためであり、主原因としての河川の汚れを改善しないと解決しないにもかかわらず、本来の原因をとりのぞかずに対処療法とすることで利益を継続的に上げようとします。

多くの産業、多くの業界において、あるときは知識不足からの不本意であったり、あるときは故意であったり、いずれかの原因や理由で人々に対する落とし穴が生まれます。例えばそれは病気になることであったり、経済的に損をすることであったりします。多くの人に落とし穴があることを伝えても情報が交錯していたり、今までの固定観念から落とし穴なんか空いていないよね、と言って進んで行きそのままいつか落ちます。落ちたところを見計らって群がる人たちがいて、助けてあげるからロープと梯子とどちらが良いか?と聞いてきます。そしてロープならいくら払って、梯子ならもっと払ってと提案してきます。助けられた人はお金を払っても助けてくれた人に感謝をします。誰が落とし穴を掘ったかは分かりません。もしかしたら梯子を差し出したその人かもしれません。加えて、一度はい出られても落とし穴は無数に存在しますので、一度落ちた人は再び他の穴に落ちて、また助けを求めることになります。このように、根本的な原因である穴が空いているから落ちないようにと気づかせようとする行為は、お金にもならず感謝もされず評価されないことばかりが世の中で増え続け、対処療法的な穴から落ちたところをお金をもらって助ける人たちが評価をされて裕福になるという現実が少なからずあります。特に医療や環境などの自然科学に関わるベンチャー企業は、それ自身の原理が複雑多岐であること、また実経験がない比較的若手が多いことなどから全世界的に勘違いだらけになっています。加えて投資に携わる人たちは数年で投資金額を数倍に増やさなければならないという背景から、すぐに利益が上がるように見える落とし穴から助ける会社ばかりに投資を行うため本来の課題を解決しないことを助長します。

国の機関である経済産業省も同じ状況に陥っています。社会課題解決と経済発展を両立させるということは矛盾するため、どちらにも貢献できていない状況が数十年続いています。エネルギー関連事業、ライフサイエンス関連事業、IT関連事業、半導体デバイス関連事業、新規材料事業、更に具体的には国産航空機の事業やiPS細胞の事業も投資以上の効果は出ていませんし、これからも出ることはありえません。事業に関わった企業は自己負担や事業後の処理で大きく疲弊し、更なる投資が出来ずに終わるという負のスパイラルが続いています。役人の人たちも成功を前提にすることが出来ないため疲弊していき、成功が無いことが更に企業の評価を落とし、更なる負担や手間を増やす方向に進みます。あらゆる省庁で同様のことが起きており解体と再編が必要ですが、それには人々の価値観の変更も必要になります。経済産業省で消費している予算と役人を「社会課題解決省」に投じれば、多くの成功につながるはずです。また今後は経済発展よりも産業の維持や改良が重要となりますので「産業維持改良省」も予算と役人を投じるべきです。役人の人たちにとって今よりはるかにやりがいのある仕事となることでしょう。

資本増加主義の弊害の中に「文化の崩壊」と「産業の崩壊」があります。特に自由競争経済に貿易が関わってくると、それまで各国の文化的特徴だったものが崩壊していきます。最近の分かりやすい例で言えば、「コメ」のことが挙げられます。日本で2000年以上に渡って培われ育み、日本らしさのすべての土台となっていた「稲作」が近い将来崩壊する可能性があります。「稲作」は重要な文化であり農業という産業の中でも核となるものですが、従事者の高齢化(70%以上が70歳以上)、肥料や機械類のコスト高、コメ以外の食料品の増加や海外からの安い輸入品との競争による販売不振から、低価格化などを要因として継続性が失われています。「稲作」が崩壊することは日本の風景が日本では無くなることを意味します。 日本人であればすずめの声で目を覚まし、蛙の鳴き声でまどろみ眠りにつくことが当たり前でしたが、都会ではどちらも聞けなくなってきました。生米を撒くと積極的に食べる鳥はすずめくらいです。ひよどりやカラスも少しはついばみますが、身体が遥かに小さいすずめほどは食べません。1羽が30秒のあいだに50粒ほどついばみますが、家に帰って子供にでもあげるのでしょうか?すずめにはお米が必要だということが分かります。また、両生類は豊富な水がある場所に生息しますが、温暖化の影響もあり世界的に生息域が狭まりつつあります。蛙は比較的餌を選り好みしませんがそれでも水生昆虫やバッタなどが多い水辺に生息し、特に日本の場合は田んぼが多くの蛙の住処でした。夏は豊富に餌が存在し、冬は田んぼの柔らかい土手に穴を掘りその中で冬眠をするという生活環がありました。初夏にはつばめが田んぼの土と稲わらの欠片で巣作りを行い子育てをすることも、田んぼがあることで成り立つことでした。ここに挙げた日本らしさの象徴は無限に近い事象のうちのほんの一部で、これ以外の様々なことが日本から無くなり、二度と取り戻せなくなる可能性があることを意味します。このような「文化の崩壊」や「産業の崩壊」を回避する手段の一つが「関税」です。

そもそも貿易は黒字すぎても赤字すぎても良くありません。黒字ということは海外の資産を奪っているということですし、赤字だと国の資産を海外に奪われているということになります。そこまで裕福ではない国が、iPhoneやベンツを大量購入すれば、資源や食料を海外から調達できなくなり国が傾きます。その国が裕福か裕福で無いかの指標として最も関係のある指標は「対外純資産」になります。これは国内で保有したり回っているお金以外に海外にある、海外で使用できる資産のことで、言い換えれば「国の貯金」のようなもので、これは国の経常利益により増加します。最近になり財務省や日銀への風当たりが強いように見えますが、財務省と日銀は自分たちが大きな結果を出していると考えていると思います。なぜなら日本は長年にわたりこの対外純資産を増やし続け2023年の段階で世界一だからです(3兆3200億ドル=471兆円:142円/ドル2023年12月レート換算)。これを積極的に公表しない理由は日本がこれを増やすことを最大の目的にしていることを海外に知られたくないからです。具体的には外国債や株式への投資、日本国債発行、利率のコントロールによりこれらを実現しています。このように儲ける方法や儲かっていることを口外しづらい環境というのも社会には存在し、上述のように国家機関や政府へ風当たりが強くなるという弊害を及ぼしています。自分たちが成功していると考えているにも関わらず、よく分かっていない人に批判されて、それでもその人の生活を良くしたいと動けますでしょうか? 話は貿易に戻しますが上述のとおり、国の発展に寄与しない可能性が高い贅沢品を購入し続ければ国が傾きますし、その国の発展や文化と産業の維持に関わる材料を適正な価格で調達できれば、良い方向に向かいます。海外の高級時計や高級車を購入するよりも、国産品を購入するほうが国内の産業や文化にとって良い方向に向かうことは少し考えれば分かりそうなものですが、そうならない理由に「販売・サービス業の興隆」も大きく関わってきます。基本的に日本のように産業構造が幅広く市場が活発な国においては、製造するより販売やサービスに徹するほうが利益が簡単に上がります。理由は設備投資の必要が無く、材料を調達する必要が無く、在庫を持たず、サービスもメーカーに任せられることが多いからです。特に海外メーカーで既に実績がある物を輸入して販売し利益を上げることは、他の事業に比べて利益は上げやすいです。高度経済成長期の時代から日本やドイツにおいて様々なメーカーの研究開発分野では、特に米国の最先端の設備を他国よりも先に導入し、分析や計測を行い精度の高い最終製品を製造することで他国に比べて質の良い物を供給することが可能となっていました。現在では中国を始めその他の国も購買力が上がり、先んじて研究開発分野に導入するという有意差を出すことが出来なくなり、日本もドイツも製品の優位性が低くなってきています。これはアカデミアの研究分野でも同じです。最新の装置でデータを出せば論文がかける時代では無くなりました。以前の成功パターンが通じなくなっているのですが、特にそれで成功してきた上層部の頭の中を切り替えるのはいつの時代も困難です。繰り返しになりますが、特に高額な海外メーカーの物品やサービスばかりを導入すると小さなコミュニティの利益にしかならず、産業構造では裾野(下請け)に負担がかかります。ある大企業が自社の技術のように謳っていても、それらを支える様々な部品の技術は下請けの技術が複雑に絡み合って成したものです。最近は大企業が生産効率が良く、中小企業は生産効率が悪いという話もよく聞きますが、これは大企業や公的機関がきちんと中小企業に対価を払っていないだけのことです。ひと昔前は現在ほど材料が揃っておらず、インターネットも普及していなかったため、大企業が下請けにきちんと研究開発費を支払い育てていく習慣がありました。現在は、様々な物品をインターネットで調べれば簡単に入手できるため、特殊な研究開発が必要な物品であっても、一つの物品として比較されてしまい、そこにかかる製造を成功させるための研究開発費(人件費、材料費、管理費、光熱費)は全く念頭に入れられません。大企業の株主やコンサルティングはその会社が利益を上げることを一番に考えますので、仕入コストは安ければ安いほど良いという発想になり、それは役員を通じて社員に浸透します。そのようにして中小企業から搾取した利益を既に不必要なほど既にあるところに流します。それでもこのような活動は市場拡大期であればそこまで問題にはなりませんが、景気後退に近づくにつれて1次産業や製造業の利益を圧迫し投資を減少させ疲弊させて、最終的にはお金に囚われている自分たちの首を自分たちで締め付けます。「関税」にはそのようになることを回避しGDPを維持する効果もあります。

現在の先進国に基本的な考えとしてある、自由競争の重要性を掲げるときに真っ先に言われる理論に、「共産主義のようにすべての対価をすべての人で共有すると頑張った人が評価されず損をする」「そのため頑張る人がいなくなる」という批判があります。現在の先進国を見てみると、頑張って肉体労働している人ほど収入が少なく社会で評価されず、株式投資などで労せず莫大な利益を上げる人が評価されるという現実があります。まさに頑張っている人が評価されず収入が得られないという自由競争を唱える人が嫌悪する社会が存在します。中年よりも子供たちや青年世代は遥かにこのような社会を感受しており、働かないでも良いという考えや楽して稼ぐ方向に向かっています。若年層の生活保護受給者の割合はどこの国でも増加している現状があります。

お金に囚われない生活(収入も出費も少ない生活、もしくはよほど多くのお金を保有している生活)に入ると、お金に囚われている人たちが様々な負の感情を持っていることに気が付きます。それはお金が減ることに対しての怒りが最たるものです。お金に囚われている人たちは「こうでなければいけない」という考えが強いです。時間に遅れてはいけない、宿題は必ずやらなければならない、約束は守らなければいけない・・・、理由は結局のところ、収入や資産が減る方向につながると深層で考えているからです。日本ではチェーン店など、どこのお店でも8時開店というと8時00分00秒に開店しようとします。たくさんの人が既に並んでいようが、全く人がいなかろうがこのようにします。学校の授業で出された宿題も親や先生は必ずやらなければならないと言って子供にほぼ強制的に行わせようとします。親が子供に約束を押し付けて「必ず約束は守らなければいけない」と言ったりします。なぜこのようにしなければいけないのかと考えると、就職して社会に出たときにこうでなければいけない、を守らないと収入を得られない方向に行くことがほとんどだからです。逆に極端な話ですが、子供の頃から自然の恵みと畑作だけで生きていたら上で挙げた「こうでなければいけない」を守るということは全く理解できないはずです。

「こうでなければいけないを守らないと他人に迷惑をかける」という意見も出ると思いますが、これも他人の収入や資産(立場)が減るからという理由がほとんどで、その他人もお金に囚われていなければ迷惑でもありません。恐らく世界の半数くらいの国はあまりお金に囚われずに生活しているような気がします。

それでも日本国内では様々な人々が移入してきており、外国人を見ない日はないほど増えてきています。都市によってはコンビニで働いている人のほとんどが外国人の都市もあります。話が少しそれますが、コンビニでアルバイトをしている外国人に出身国を聞いたり少し話をしてみると非常に多国籍で驚きます。また、コンビニのアルバイト店員はたいがい国立大学の留学生であるこが多く学業的に優秀な人が多いように見えます。よくよく考えれば、工場で毎日決まった業務を行うだけに比べてコンビニのアルバイトは非常に多くの業務があり、日本語も話せる必要があり柔軟性を求められます。最近は南米、中東、アフリカからも移民や留学生が来ています。話を戻しますが、移民が急激に増えることは母国の人にとって様々な負担が増えます。特に普段の生活習慣の違いがストレスになっているように見えます。

 

 

≪目的と手段≫

≪原因と結果≫

 

≪ちょっと一息~お米のはなし~≫

令和6年は4月頃からじわじわと店頭から令和5年度産のお米が不足し始め、それに合わせて価格も徐々に上昇し始めました。永らく5kgが1500~2000円で販売されていましたが、5月には2200円、6月には2500円、7月頃には3000円を超えるケースも見え始めました。この時、実際に何が起きていたのかを知ることは難しいです。もしかするとメディアが報道するように、外国旅行者の急増によるものや、卸の売り渋りなどが起きていたかもしれませんし、あるいは個人の買いだめがあったのかもしれません。その後、8月になり全国的に収穫が始まりました。例年であれば「早場米」といって、九州や四国、千葉県や和歌山県など海に近く比較的温暖な地域のお米が出回りますが、これは日本国内のお米の在庫量が少なくなり希少価値が高い時期に、新米を出すことで高く販売することを目的として、田植えを早期に行ったり早く実る品種を作付けしたりしています。これに反して、令和6年度は、8月には本格的に店頭からお米が無くなったため、販売側からの強い要望の中、農家は早田刈りを行いました。これは新潟や北海道など従来の産地でも行われ、普段は10~11月に収穫を行うところ、9月末には3割ほどの田んぼで収穫してしまっているように見受けられました。稲穂が黄金色になりこうべを垂れるくらい実るのは10月に入ってからですので、10月初旬ごろ実際に新米を購入し米粒を見てみると、粒の大きさが例年の6割程度しかありませんでした。これだけ早く刈れば当然のことです。似たもので例えると、たまに枝豆のさやから豆を出したときに小さい豆が入っていることがありますがあのような状態です。「米の収穫量」は基本的にもみ摺り前のもみ付きの重さで出しますので、令和6年度は前の年に比べて2.7%増加したというデータがありますが実際に食すことができる白米部分の比率は低く、もみがらの重さが増加した分となっているはずです。玄米での重さ換算で10~15%減、更に白米の重さ換算で15~20%減になったというのが個人的な推測ですので、これが市場で不足気味になったことにつながると考えられます。また、市場流通量のデータも出ており21万トン減少したという話もありますが、R6年度産のお米は上述と同じような理由で米ぬかの比率も高く高温障害もあり、相当磨かないと白米にならなかったこと、また農家からインターネットを通じて直接購入する人も相当増加したと考えられ、これらはまだ統計データに反映されておりません。R6年度の初期に収穫した新米は残念ながら美味しくなく、それにもかかわらず買いだめをした人たちも多かったかと思います。美味しくないお米を食べていれば消費量も減りますし、購買意欲も下がります。R7年度はお米の収穫量を更に増やすという農家も多いようですが、農家やJA、卸しの企業はR6年度のお米の失敗?(実際には単価が上がったため成功といえるかもしれません)を参考に、早田刈りを避けることになるかと思います。そうなると、だいぶ過剰生産となるなか消費もそこまで上がらず、玄米換算で30~50万トン近く余ることになりますが、これは国が購入して備蓄米にまわすことでしょう。結果的にR8年の2月前後に価格が安定し、3500円~4000円/5kgになる予測です。令和7年の2月に農水相が次のコメントをしました。「コメは十分に供給されているのに市場に出てこないということは、どこかでスタックしていると考えざるを得ない」と。上記の理由で消えたのは米ぬかとしてJAと卸しの精米工場で処分され、この廃棄する米ぬか分の重さを店頭価格に乗せているだけです。関係者はみんな善意で行動していて誰も悪くありません。

 R6年の収穫状態

 例年の収穫時期の風景